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ところで皆さんは、福岡と博多のちがいって知ってますか?
いがいと福岡に住んでいても、知らない人が多くいるようです。
少し堅い話になりますが、福岡・博多のルーツを知っていただくためにも、少々
講釈をたれさせてくださいね(^^ゞ
博多という地名は、西暦759年『続日本記』にも登場する古い地名です。6世紀ごろの大和朝廷時代
には、大陸との 外交拠点として重要な場所でもあり、平安時代にはいると朝鮮・大陸との貿易の中
心地として栄えました。
さらに16世紀ごろの天正15年に、アジアに向けた重要な港町と感じた豊臣秀吉が『博多町割り』という
都市復興計画を実施しました。
今日の博多山笠の運営組織『流』はこの時にできたといわれています。
徳川時代にはいって、名島城(現東区・名島)を本拠とした小早川秀秋
(関が原の合戦で家康の東軍に寝返った)は、備前(岡山)の地を与えら
れて岡山城に移りました。
かわって、豊前中津(大分)より、功績のあった黒田長政が入城し自分
の生地である備前国邑久郡福岡にちなんで福岡と名づけました。
その後、赤坂山(現中央区・赤坂)を削り、築城し舞鶴城と名づけました
(現在の城跡)。
大手門・赤坂門・舞鶴などはこの時にできた地名の名残りです。
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よそから来た殿様に勝手に地名を『福岡』に変えられた博多の町人達は、猛反発したらしいです。
そして、町の中央を流れる那珂川をはさんで、中洲の関所で仕切られ、西側を武家がいる城下町の
福岡、東側を町人(商人)の町・博多と区別して呼んでいました。
中洲は、武家と商人の接点であり、この当時から遊郭などがある一大歓楽ゾーンだったのです。
明治維新後の1867年には市制・町制が公布され、翌年4月から福岡と博多は『福岡市』となりました。
しかし、当時の博多の人達によって福岡市ではなく『博多市にするべき』との運動がおこりました。
また『福岡市と博多市に分離した方がよい』という意見もでたようですが、行政区で福岡県となった事も
あり、『福岡市』と決まりました。そのかわりに、九州初の鉄道がその年の暮れに開通する際に、駅名を
『博多駅』にする事で博多市派をなだめたという事です。
さらに、その翌年にまた同じ問題で動議が出され再び採決がとられ、一票差でやっと『福岡市』で決着が
ついたのです。
これが博多と福岡のちがいです。
博多の人間の特質が分かる、興味深いエピソードだと思いませんか?
文化人類学者の祖父江孝男氏の著書『県民性の人間学』によると、福岡県人は、権威主義的なものの
考え方には反発する。隣県の佐賀や熊本、山口と比べるとかなり自己主張が強い、と書いてあります。
また、博多については、開放的で、来る人を拒まず、去る人を追わずという風が強い。他国者を疎まず、
人見知りもしない。
また、祭りも派手で男性的でありながら、あまりねちねちしないのであって、やはり黒田武士と相通ずる
気質をみることができる。
しかし、京都的な性格もあって、愛想のよさとは全く逆に、意地の悪さも持っている・・・。
いやー、よく分析してますね!
心あたりの人は?アタキだけですかね。
知り合いにフクォーカーがいる人は、勉強になるでしょ!!
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